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ヘッドセットがなくても楽しめる“全方位映画”『Great Performers』

三つ数えろ
ある夜、あなたはあるバーのバーテンダーで、酒瓶が並んだ棚を背にしてカウンターのなかに立っている。カウンターの向こう側のがらんとした店内を眺めると、誰もいないビリヤード台、いくつかのテーブルとイス――イスはもうテーブルにぜんぶ上げてある。店じまいの時間なのだ。

ひとりだけカウンターの端で飲んでいる女性がいるが、彼女はこっちの事情なんか考慮しちゃくれない。

さて、店内は薄暗く、全体にダークな雰囲気。おまけに雨も降っている。
右手には外に通じるドアがあり、ブラインドの下りた窓があって、ブラインドを通して濡れた夜の気配が伝わってくる。と、その窓に人影が写る。ヨタヨタと歩く男のシルエットは、やがてドアのあたりで止まり、――やれやれ、店じまいをしたのに。

入ってきたのはくたびれた顔をした男だ。スーツにネクタイ、帽子姿。どことなく1940~1950年代の感じがする――映画でいえば、ハンフリー・ボガートがカッコいい探偵を演じた『三つ数えろ』(1946)の感じ。
そういえば、あなたが今体感している世界はモノクロで、ダークな雰囲気もどうやら気のせいじゃない。
あきらかに、「フィルム・ノワール(暗黒映画)」の濃厚な香りが漂っている!

ところで、入ってきた男を演じているのはドン・チードルだ。

コメディ・リリーフもシリアスな悪役も器用に演じる俳優で、1994年にアフリカで起きた悲劇を描いた映画『ホテル・ルワンダ』(2004)での仕事が評価されてアカデミー主演男優賞にノミネートされ、ハリウッドにおける「素晴らしい俳優たち=Great Performers」の一員として認められた。

ホテル・ルワンダ

バーに入ってきたチードルはどうやら傷ついているようで、肩を押さえ、よろけながらあなたの真正面に座る。指で「グラスをよこせ」のしぐさをする。あなたは酒を出す。チードルはどうやら追われているようだ。

その証拠に、彼はあなたに何かを訴えかけ、スーツの内ポケットから封筒を出してカウンターに置こうとするが、そのときすでにチードルが入ってきたのと同じドアから、ロングコート姿の男がふたり、いかめしい顔をして入ってきているのだ――そんな格好をしているのは、刑事でなけりゃギャングだけだ。

チードルは肩越しに彼らを見て、軽くため息をつく――軽い感じのため息だが、その表情は沈鬱だ。すでに彼はこのあとの展開がわかっている。ふたりはチードルの真後ろに立ち、ひとりがカウンターの端にいる女性――ずっと自分の世界にひたったままカクテルを飲んでいる女性をチラッと見る、あなたも一緒に見るが、彼女は相変わらず自分の世界にひたりきっている。

チードルは再び口を開き、何かを訴えようとするが、そのときのあなたはそれどころではない。
後ろの男ふたりがふところからピストルを取り出して――

ニューヨークタイムズが配信!名優たちが出演する「360度動画」

映像はモノクロ。舞台はバー。出演者は名実ともに優れた「素晴らしい俳優たち」。
そんな共通項を持つ全15分ほどの短編動画集が、ニューヨークタイムズによって配信されている。
ニューヨークタイムズのYouTubeアカウントで配信されているので、誰でも無料で観る――いや、体感することができる。

『Great Performers』というタイトルで配信されている作品集は「360度動画」で、VRヘッドセットは不要である。動画のうえにマウスカーソルを合わせて動かし、あるいは左上に出ている「上下左右」の矢印が表示されたマークをクリックして、視点を動かすことができる。

真正面のドン・チードル、後ろの酒瓶の並んだ棚、カウンターの端で飲んでいる女性、足もとの床、天井など360度全方位に、自由に目を向けることができるのだ。

VRが実現し、360度の風景を一度に撮影できるテクノロジーが開発されて、僕たちは今やスクリーンの膜で俳優たちと隔絶されるのではなく、彼/彼女たちが演じる世界のなかに入っていけるようになった。
このことを記念した360度動画の制作と配信は、2015年にスタートした。

2015年の作品は『Take Flight』というタイトルで、夜のニューヨークの街角に立っていたあなたの体が突如浮かび上がり、空のうえでさまざまな人々と出会う――というファンタジックな作品だった。

Take Flight

一転して、2016年の『Great Performers』は、レトロでクールなイメージのモノクロの世界で、スリルとサスペンスの匂いが濃厚な10ストーリーを描くという短編動画集になった。
1本目のドン・チードルをはじめ、『ブラック・スワン』(2010)で狂気の世界に片足を突っ込んだバレエダンサーを壮絶に演じて話題になったナタリー・ポートマン、ティーン向けのロマンティック・ホラー「トワイライト」シリーズ(2008~2012)で注目されたクリステン・スチュワートなど、ハリウッドで活躍中のパフォーマーたちが出演している。

ちなみに、配信しているニューヨークタイムズは、アメリカの新聞社。位置づけとしては「地方紙」だが、発行部数はアメリカ国内で第3位を誇る大新聞である。
タイムズ紙はジャーナリズムの面からVR、360度動画の可能性に目をつけていて、2016年11月から世界各国の状況を短い360度動画で伝える「The Daily 360」という取り組みをスタートしている。

あなたもパフォーマーのひとりになる。

『Great Performers』は、1本目の作品でドン・チードルがバーテンダーのあなたに語りかけてきたように、単なる観客として動画を体感するだけではない、登場人物――それも結構な重要人物として短い物語を体感することになる、という趣向の作品集だ。

2本目のナタリー・ポートマン編では、ポートマンとあなたはバーでテーブルをはさんで向かい合っているというシチュエーション。あなたは、最終的に彼女にフラれてしまう役どころ。

個人的に気に入っているのは10本目、クリステン・スチュワートが出演する作品だ。
彼女は白いシャツにズボン姿で、片手にピストル、空いた手にビールの小瓶を持ち、穴だらけのバーのドアにもたれて座っている。窓は割れ、外には警官の気配――とりかこまれているのだ。
彼女は片膝を立て、ほれぼれするようなしぐさでビールを飲み、やがて警官が充満するバーの外に出てゆく。あなたに微笑みかけてから――。

Great Performers
『Great Performers』は、すでに書いたようにヘッドセット不要の作品だ。
ヴァーチャル・リアリティには興味があるけれど、PSVRもOculus Riftも持っていない――そんな人でも手軽にその雰囲気を味わうことができる。作品も1本につき2分以内と短いので、ぜひチェックしてみてほしい。