タイトルの頭に2chまとめサイトよろしく【悲報】とでも付けたいようなニュースが、ある筋から入ってきた。
ニュースといっても、例によって昨日今日の情報ではない。数年前のニュースを、今になって発掘したのである。今回の主人公は、映画監督のジェームズ・キャメロンだ。
ジェームズ・キャメロンといえば、『タイタニック』(1997)、『アバター』(2009)をはじめとした大ヒット作を次々に世に送り出し、特にこれら2作品によって現時点(2017年1月)で世界の興行収入ランキング1、2位を独占している映画監督だ。
彼は2014年、とある場でVRに対する自分の立ち位置を明らかにした。
それは必ずしも肯定的なものではなかった。あまり興味がない旨を明らかにしたというのである。
「VRの話を聞いてるとアクビが出そうになる」という表現まで飛び出したという情報もある。
マジなのだろうか。
ネットに公開されている英語記事を四苦八苦しながら読んでみると、確かにジェームズ・キャメロンは今のところVRにそれほど好印象を持っていないようである。
特に、僕が興味を持つ「VRと映画の関係」について、けっこう消極的な意見をお持ちのようだ。
『タイタニック』で最新のCGI技術をつぎこんで「タイタニックの悲劇」を完璧に再現し、『アバター』では3D技術を本格的にとりいれて話題をさらったハイテク技術が大好きなジェームズ・キャメロンは、VRのどこがお気に召さないのだろう?
映画界の2大監督が危惧するVR
2016年5月、映画監督スティーブン・スピルバーグは、「VRは伝統的な映画を破壊する可能性がある」という意味のことを口にしている。
仮想空間の真ん中に観客を放り出し、まわりの風景の好きなところを見ることができるようなVRの映像は、監督が観客を導く映画の文法とは相いれないものである――そういうニュアンスの言葉だった。
監督が見せたいものとは別のものを観客が自由に見てしまうようになれば、それはもはや映画とは呼べないのではないか?
キャメロン監督がVRに対して持っている否定的な(と便宜的に書いておくけれど)意見の中身も、スピルバーグの言いたいことと大筋では似通っているものだといえる。
キャメロン監督はあるインタビューで、以下のような意味のことを言っている――
「VRを映像に取り入れることによって、物語を語ることはできる、それが芸術になる可能性もある。でも、それは映画ではない」
その理由として、質問者に対して逆に問いかける形で、「あなたはカットできない環境で映画が作れると思いますか?」と言っている。
「VRを使ってつくられる映像は、自由自在にカットを割ることができない。だから、それは映画にはならない」というのがキャメロン監督の意見なのだ。
“カット”の概念が存在しないVR映画
映画は、多数の「カット」をつなげることで出来ている。
たとえば西部劇を例にとってみよう。
クライマックス、凄腕のガンマン同士の決闘を描くシーン。そこには、少なくとも4~5のカットがなければならない。
➀全景のカット――砂埃が舞うアメリカ西部の街で、ふたりのガンマンが向き合っている。
➁正義の保安官のアップをとらえたカット――大銃撃戦をくぐり抜け、ついに悪の親玉を追いつめた。もしかしたらケガをしているかもしれない。息が荒く、表情は硬い。
➂悪役のアップ――自分の射撃技術に絶対の自信を持つ傲慢なこの男は、余裕の表情で(頬に笑みさえ浮かべて)保安官を睨みつける。
➃再び全景――緊張が高まり、ついにふたりが動く。抜く手も見せずにほぼ同時にホルスターからピストルを抜いて相手に突きつけ、轟音が響く。
➄保安官のアップ――
――おっと、もう5つまで来てしまった。
要するにカメラが遠くから撮ったり、近くから撮ったりした短い映像(カット)をつなげて、ひとつのシーンがつくられ、いくつかのシーンがまとまって1本の映画に仕上がるのである。
緊張感がみなぎった街の風景を観客に伝える➀、そして人物の表情を迫力あるアップで伝える➁や➂がリズムよくパッパッと切り替わることで、観客は飽きずに作品を見ることができる。
「映画は2つのカットをつなげること。その間に3つ目の何かを生み出すこと」
映画界の異端児でありながら、ある意味では現代映画の基礎を築いたといってもいい監督ジャン=リュック・ゴダールにはそんな“名言”がある。
演劇とも絵画とも違う映画の芸術性は、カットが自在に切り替わることにあるのだ、という認識である。
一方、“VR映画”はどうだろう?
現在発表されている作品の多くが短編だからあまり気にならないだけかもしれない。
そういわれれば、確かに“カットの切り替わり”は基本的には存在しない。観客は、VRカメラやコンピュータ・グラフィックスによってつくられた仮想空間の真ん中に立って世界を“体験”する。目の前のスクリーンに急にバーン!と俳優の顔のアップが映るようなことはない。
“カット割り”が行われない映画――ゴダールの言う「3つ目の何か」も生まれようがない。
そういう意味で、キャメロン監督は「VR映画というのはあり得ない」という結論に達しているのだ。
VRテクノロジーそのものには否定的ではない
見てきたように、ジェームズ・キャメロンは「“VR映画”は映画になりえない」という意見を持っているようだ。
おそらく、監督がVR映画を撮ることはないだろう。
名匠マーティン・スコセッシは“VR映画”に興味を持ちつつも「若い人に任せるよ」と自分では関わる予定がないことを宣言しているが、キャメロン監督の場合とは異なる。
ただし、そんなジェームズ・キャメロンも、VRというテクノロジー自体に否定的な意見を持っているわけではないようだ。
2014年、アメリカのネット掲示板「Reddit」でファンとふれあったキャメロン監督は、「VRが映画というものを変えることはない」としつつも、観客が観客ではなく物語の主人公となる、いわばVRを活用したノベルゲームのようなモノの可能性ついて示唆しているのだ。
主人公となった僕たちが仮想空間内でさまざまな選択をする。それに合わせて、ストーリーの展開が変わっていく――そのようなVRコンテンツについては「あり」だと言っているのである。
「映画にするにはビミョーだけど、ゲームに活用するにはいいのではないか」
それが、ジェームズ・キャメロンのVRに対する意見なのだ。
CGIや3Dを映画に活かしてきた監督のことだから、VRも思いっきりうまく取り入れてくれるに違いない。
そんなふうに考えていた僕には、今回のニュースは少々ショッキングなものだった――が、キャメロン監督の意見は理解できるものだし、人の心は変わるものだし、テクノロジーは進化するものだ。
遠い未来、ジェームズ・キャメロン監督作のVR映画が見られるかもしれないという微々たる可能性を想いながら、VRについての情報を追っていきたい。